The Beatles Tribute Concert 〜Abbey Road〜
ビートルズ・トリビュート・コンサート
☆TODD RUNDGREN トッド・ラングレン☆
音の魔術師。
1948年6月22日、ペンシルバニア州のフィラデルフィアに生まれる。8歳の時に8週間のギター・レッスンを受け、16歳の時にエレキ・ギターを買い、高校で「マネー」なるバンドを結成。その後ホワイト・ブルーズ・バンド「ウッディーズ」を経て、1967年春にはじめてのプロ・バンド「ナッズ」を結成。「ナッズ」は1968年に大手音楽出版会社スクリーン・ジェムズ・コロンビアと契約、同年にアルバム『NAZZ』でデビューする。ルックス偏重のプロモーションが奏功したデビューで、注目を集めるが、1970年には解散してしまう。
その後、トッドはアンペックス・レコードと契約し、70年9月にソロ・ファースト・アルバム『ラント』をリリース。シングル「ウィ・ガット・トゥ・ユー・ア・ウーマン」がヒットする。1972年には3枚目となる『サムシング&エニシング』を発表。「ハロー・イッツ・ミー」や「瞳の中の愛」といった名曲を数多く収録したこのアルバムはトッドの存在を一躍有名にした傑作である。また、この時期から他アーティストのプロデュースも手掛け始め、、その才能はグランド・ファンクの『シャイン・オン』やホール&オーツの『ウォー・ベイビーズ』の大成功で証明されている。
1974年にライブ・パフォーマンス用のバンド「ユートピア」を結成し、精力的なライブ活動を始める。(後にユートピアとしてもアルバムをリリースしている。)
80年代に入ってからも精力的にバンドとソロ活動を平行させてアルバムを発表。加えてパティ・スミス、サイケデリック・ファーズなどのアーティストのプロデュースも手掛ける。
1985年以降はソロ活動に専念、『ア・カペラ』や『ニアリー・ヒューマン』をリリース。この頃からMIDIコンピューターを駆使したコンサート活動を開始。またXYCやボニー・タイラのプロデュースし、メディアの注目を浴びている。常に斬新なアイディアを持ち、前向きに創作活動を続けるトッド・ラングレン。今後の展開も楽しみである。
☆ALAN PARSONS アラン・パーソンズ☆
ビートルズやピンク・フロイドのサウンドを生んだ男。
1949年12月20日生まれ。
もともとはロンドンにあるアビー・ロード・スタジオでアシスタントを務めていた彼は、ビートルズの『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』。『アビー・ロード』のレコーディングで働く機会を得、それを機にエンジニアとなる。ビートルズ解散後はポール・マッカートニーの絶大なる信頼を勝ち取り、ウィングスの代表作、さらにはピンク・フロイドのエンジニアを担当。特にフロイドの『狂気』ではグラミー賞のテクニカル&エンジニアリング部門でノミネートされ、その後のプロデューサーに転身。アンブロージア、ジョン・マイルズやアル・スチュワートといった多くのアーティストを手掛け、いずれもが大ヒットを記録した。
そんなアランに、シンガー・キーボード奏者のエリック・ウルフソンがエドガー・アラン・ポーの小説の世界を音楽で表現しないかと持ちかけた。興味を持ったアランはエリックとアラン・パーソンズ・プロジェクト(APP)を結成し、一緒に約1年に渡りポーを研究、1975年7月からスタジオに入り、多数のゲストを向かえアルバム『怪奇と幻想の物語〜エドガー・アラン・ポーの世界』を制作。1976年6月に発売された同アルバムは世界中で話題を呼び、グラミー賞にノミネートされた。1977年にアリスタ・レコードと長期契約を結んだAPPは、次々にSFや古代ピラミッドをテーマにした話題作を発表。1982年にリリースされた6作目のアルバム『アイ・イン・ザ・スカイ』からのシングルのタイトル曲は、彼らの代名詞になる程の大ヒットを飾る。
その後も「ドント・アンサー・ミー」のヒットを生んだアルバム『アンモニア・アヴェニュー』やデジタル録音の効果をフルに発揮した『ヴァーチャル・カルチャー』やスペインが生んだ建築家ガウディーをモチーフとした『ガウディー』を発表。大胆なアプローチを繰り広げつつ完成度の高いサウンドを送り出す。また、決してステージ活動をしないことでも有名である。
90年代に入ってからはソロ名義で活動。『人生ゲーム』、『タイムマシン』等のクオリティーの高いアルバムを制作している。
☆JOHN ENTWISTLE ジョン・エントウィッスル☆
史上最強のライブ・バンドの世界屈指のベーシスト。
1946年10月9日、イギリスはチズウィックに生まれる。
音楽教育が熱心な母親のもと、7歳から11歳までピアノを習わせられる。その後も様々な楽器に興味を示し、学校のオーケストラでは2年間フレンチ・ホルンを吹く。14歳のときに初めてベース・ギターを手に入れたジョンは、積極的にあらゆるスタイルのバンドに参加。あくトン・カウンティ・グラマー・スクール時代には学友ピート・タウンゼンドとパーティー・バンドを結成するが、卒業と共に解散。その後ジョンは税理事務所で働きながら学校時代の友人ロジャー・ダルトリーのバンドに参加するようになる。1963年にはピートも参加することにより、ザ・フーの原形が出来上がる。
フィリップス傘下のフォンタナ・レーベルとの契約にこぎつけた彼らは、1964年にバンド名“ハイ・ナンバーズ”としてデビューするがやや不発に終わる。同年10月にドラマーのキース・ムーンが加入し、バンドは名前を“ザ・フー”とし、再スタートを切る。マーキーというクラブのレギュラー・アクトに抜擢され、その独特のアクションやギター、ドラムを壊す過激なパフォーマンスはマーキーの動員記録を毎回塗り替える程の話題バンドに成長。そんな折、キンクスのプロデューサーだったシェル・タルミーの目に留まり、ザ・フーとしてのデビューに成功。その後は歴史が物語るとおり、「マイ・ジェネレーション、「キッズ・アー・オールライト」、「アイム・ア・ボーイ」や「サブスティテュート」などのヒット曲を連発。
1969年には伝説となったあのウッド・ストックにも参加し、ライブ・バンドの評価を決定づける。
1978年にドラマーのキース・ムーンが急死。その後しばらく活動するが1982年に解散を発表した。
ジョンはザ・フー後もソロ・アーティストとして活動。ザ・フー時代は寡黙なベーシストとのイメージが強かったが、反面依存感も強く、その見事な指捌きで世界を驚かせた。
その後も『マッドドッグ』や『最後のヒーロー』などベテランらしいスケールの大きなサウンドを世に送り出した。
しかし、残念ながら日本でアビー・ロードの公演を終えた翌年、2002年6月27日、ザ・フーの北米ツアー初日、ラスベガスでのショーの前日、コカインの摂取による心臓発作により他界。
☆ANN WILSON アン・ウィルソン☆
青春を彩った歌声。
1950年6月19日、サンディエゴ生まれ。
海兵隊の将校だった父親の仕事関係から、一時期は台湾に住んでいたこともある。幼い頃から妹のナンシーとギターを手にし、音楽に熱中。1966年のビートルズのシアトル公演を最前列で見たという。
1972年、アンは元アーミーのロジャーとスティーブと他2人と共にハートを結成。カナダのバンクーバーを拠点にクラブで演奏活動を開始し、約1年後には地元で圧倒的な支持を得るようになる。この頃オレゴン大学に通っていたナンシーも時々バンドに参加していた。バンクーバーでNo.1のライブ・バンドとなったハートはプロデューサーのマイケル・フリッカーの目に留まり、74年にマッシュルーム・レコードと契約。1975年にはナンシーが正式に加入し、同年3月に「ハウ・ディープ・イット・ゴーズ」でデビューを飾る。デビュー・アルバム『ドリームボート・アニー』はカナダのみならず、全米でもトップ10入りを果たし、トリプル・プラチナムを獲得している。その後、メンバーの脱退やレコード会社との争いに見舞われるが、アルバムはリリースしており、ゴールド・ディスクを獲得している。
1980年代に入ってもハートは順調にセールスを記録。1983年にはEMIレコードへと移籍。1985年の移籍第一弾アルバム『ハート』は全米第一位を獲得、シングル「ジーズ・ドリームス」や「ネヴァー」は大ヒットを記録する。1987年のアルバムからは全米第一位にもなった「アローン」や「フー・ウィル・ラン・トゥ・ユー」などのシングルを次々に放つ。90年代に入っても人気の衰えは見えず、1990年にリリースされたアルバム『ブリケイド』は全米第3位、全英でも第2位に輝いている。
アンのパワフル且つ神秘性漂うヴォーカルはファンのみならず、業界内でも絶賛されている。ソロ・アルバムはもちろんのこと、依頼され、参加しているサウンド・トラックは映画『フットルース』、『ゴールデン・チャイルド』、『テキーラ・サンライズ』や『シングルス』と数え切れない。
このアビー・ロードで唯一の女性メンバーであるアンは貴重な存在である。
言わずと知れた音楽史上最高と言われているバンド・ビートルズ。2000年にリリースされたベスト盤『Beatles 1』は全米だけでも600万枚という驚異的なセールスを世界中で打ち立て、彼らの変わらない人気が証明されたことは言うまでもない。
解散して既に数十年経ち、新しくレコーディングされた曲など無論収録されていないこの一枚がなぜここまでのフィーバー振りを見せたのか。アメリカでは同時期に無く子も黙る人気を誇るバックストリート・ボーイズが新譜をリリースしたが、イギリスの4人組に完敗してしまった。注目すべき点は、『Beatles 1』が彼等をリアルタイムで知るファンだけでは打ち立てられない数字を作りあげたことだ。映画、ドラマやCMに今も多々使用され、今日人気を誇るバンドやアーティストの多くがビートルズに最も影響されたことを語るなど、様々な形で新しくこの4人組みと出会っている若者たちが多いことも、この数字は示している。ビートルズの音楽ほど数世代にわたり文化価値として共有出来るものが他にどれだけあるだろうか。
同アルバムは2000年11月の発売以後8週連続して全米アルバムチャートの1位の座をキープ。2001年の幕開けもビートルズは1位だった。これは世界各国でも見られた現象で、まさに今年は彼等一色で始まった年と言えよう。
そんなビートルズのトリビュート・バンドはプロ・アマあわせ数多くあるが、今回のアビー・ロードほど華やかで贅沢な 顔合わせは過去に存在しない。しかも同バンドはポール・マッカートニーが唯一承認するオフィシャル・トリビュート・バンドである。
「マジカル・ミステリー・ツアー」ではじまり、トッド・ラングレンの「ハロー・イッツ・ミー」、ハートの「バラクーダ」、アラン・パーソンズの「アイ・イン・ザ・スカイ」やザ・フーの「マイ・ジェネレーション」等の個々のヒットが披露され、今も愛され続けるリバプール出身の4人組のナンバーを歌い尽くす。6月より当初4ヶ月の予定でスタートしたこの「アビー・ロード」全米ツアーはどの都市でもソールド・アウト、急遽10月まで延長された。ワシントンD.C.では観客が6回のスタンディング・オベーションを繰り返すほどの熱狂振りを見せ、サンディエゴではチケットが僅か1日で完売してしまい、是非再演して欲しいとの要望が後を絶たない。また、LAタイムズ紙、ボストン・ヘラルド紙やビルボード誌をはじめ多くのメディアにも絶賛されており、ワシントン・ポスト紙では同公演を「もしビートルズが今存在していたら、きっとこのように演奏したに違いない、そう想像させられる公演」とレビューを掲載した。
愛するビートルズだからこそ、こんなメンバーに歌って欲しかった。その上今回は出演者各々のヒット・メドレーまでも聴ける豪華さ。ビートルズ・イヤーに相応しい2001年秋に、個々日本で公演が実現した。